■この素晴らしい地域(白華山巌峯寺の里山)を子供達に伝えたい。
今から14年前の夏休みに岩法寺子供育成会の行事として
紙芝居、「巌峯寺歴史探訪」のはじまり! はじまり! |
おーい、ドラエモン、こんなところを飛行機がとんでるよ。 「え、のび太君は知らないの! 福島空港っていうんだよ。」 「へえー、いつ出来たんだろう。」 「平成5年の3月に出来て、1番機が飛んだんだ。」 「じゃ、今年25歳になるんだ。」 「ずいぶん近くに、こんな古い寺があるんだね!ドラエもん」 この山は「観音山」、この寺は「白華山巌峯寺の奥の院」と いうんだよ。 「ここいらへんでは一番古くて、すごく有名な 寺なんだ。」「いつ頃出来たんだろうね、ドラエもん」 「約1000年前ということだよ。」 「へえー」 「年表で見てみよう。」 |
正確には1,074年の平安時代になります。 いまがここの「平成時代」の2018年です。 「昭和」を通り越して「大正時代」「明治時代」 2018引く1074は944、944年前です。 「へえー、本当に古いんだね。」 ドラエモン、「この巌峯寺が作られた「平安時代」に行く前に 「安土桃山時代」により道していこうよ。 「うん、いいよ」 |
「本当に行って見たいの!」 「うん 行こう! 行こう!」 ようし、タララ ラッタラー 「どこでもドアー」 ドラえもんはポケットから、いつの時代でも行ける「どこでもドアー」を 取り出しました。 天気もいいし、 育成会のみんなと同じくジュースとお菓子をもって 「行ってみよう のび太君。」 「うん、いってみよう」 |
むかし、むかし今から400年以上もむかしのお話です。 岩法寺を「奥州街道」が横切っていました。 街道は川辺、小高、中村ときて開山碑前を過ぎて、三つ池に 上り、今の「八幡神社」の西側を通って湯神前から「八百匁」 を通り、大黒様から大竹良照氏宅の裏を過ぎて天狗橋を渡り、 久保の坂から道シュウに出て、私の家の前を通り、佐久間英一 氏宅から「湯」、今の石森貞三氏宅の横を過ぎて「ふるいた」 に至り、小作田のほうへ通じていたと言われています。 その八幡神社西側に「奥州田楽橋」というところがありました。 この橋は関東からみちのくに通じる道に掛かった大事な橋でし た。橋の近くには「茶屋」があったと言い伝えられています。 |
この田楽橋の近くに「腹切り所」といわれるところがありました。 この「腹切り所」については次のような「悲しい物語」があったと 言い伝えられています。 カアー 、 カアー |
ころは天正のその昔、「豊臣秀吉」という殿様がおりました。 豊臣秀吉は「いつかは天下をとりたい!」と願っていました。 しかし、強くて邪魔な殿様が小田原というところにいました。 「北条うじなお」という殿様です。 豊臣秀吉は権力を持っていました。しかし一人では勝てないので、 仲間になってくれる全国の殿様をあつめようとしました。 そして大勢で「小田原城」を攻めようと考えました。 全国の殿様は権力がある豊臣秀吉が怖くて小田原にあつまりました。 しかし、石川の殿様は小田原に行きませんでした。 白河の殿様もいきませんでした。 仙台の「伊達政宗公」も最初は従いませんでした。 |
「バカモノ」 「石川昭光」はなぜ、来ないのだ。 秀吉の殿様はおこってしまいました。 時は流れ、ついに豊臣秀吉が勝利を収めました。
「馬鹿にしおって!!。石川や白河の領地は没収だ。」 「ハハー、早速そのように致します。」 |
この一報が届いた 石川の「三芦(みよし)城」では、大騒ぎになりました。 「石川昭光公」は家来達を集めて意見を聞きました。 家老の溝井六郎右エ門は「豊臣の殿様と戦うこと」を主張しま した。しかし、ある一派は「降参して石川や巌峯寺の土地を 差し出す」ことを出張し、なかなか決まりませんでした。 ハト派とタカ派に分かれてしまったのです。
豊臣の殿様は小田原城攻めの時全国から、22万人を集めました。豊臣軍隊だけでも当時5万とも10万人とも言われていま した。「よし、きめた」 「豊臣の殿様の軍隊にはとうてい勝ち目はないわ」 |
その夜、家来の中でもえらい人や血道の人たち7人を集め、 こっそりと甥の伊達政宗公を頼って奥州街道を逃げていき ました。 その後、「石川昭光公」は「伊達政宗公」の配下になって 宮城県の角田城を与えられ伊達家の中でも「伊達政宗公」に ついで次にえらい殿様になったということです。 |
次の朝になって、昭光殿様が居ないことを知った家老の 「溝井ろくろう うえもん」はびっくりしました。 家老とはお城の中では殿様の次にえらい人です。 すぐに石川から奥州街道を北にむかって後を追いました。 殿様が頼るのは「伊達家しかないと」以前から考えていたからです。
「とのーっ」「とのーっ」 しかし、「昭光殿様」の行方はわからなかったのです。 |
溝井ろくろう うえもん一行はいつしか、巌峯寺まできていました。 「あー、つかれた。やすもう」 「あれ、ここは昔から、石川の殿様の墓があるところだ」 そうなのです。「巌峯寺」は石川家の菩提寺であったのです。 歴代の殿様25人中17人がこの巌峯寺に埋められていました。
ちなみに17代以降の8人の殿様は石川町の長泉寺が菩提寺となっているようです。 |
「ぐすん」 こんなことになってしまって 5百有余年、25代も続いた あるじ石川家のご先祖に対し 「誠にもうしわけない」 殿がいなくては「いくさ」にはなりません。 「もう、城へは帰れない」 「自分はここで死を選ぶよりほかに道はない」 |
家老の「溝井ろくろう うえもん」は殿様がいない石川の城に もどることは出来ないと考えました。 ここで「死」を選ぶしか無いと決断しました。 「では、皆のもの、さらばじゃ」 「元気にくらせよ!!」 「達者でな!」 溝井ろくろう うえもんは子供や一族の者たちに別れを告げて 「お堂」に入りました。 一緒に自決した者の数など語り継がれていません。 しかし、この時の「供の名前」を書き連ねた文書が岩法寺; 大竹久重氏宅に残っていて、それを見た者が数名いた、と言い伝えられています。 その文書には「67名」の名前が記されて いたということです。 |
その当時、殿様から禄を貰っていた「サムライ」は殿様が亡く なれば「追い腹」といって後を追いましたが 石川の殿様の場合は。「殿が夜逃げして」 側近が追い腹を するという悲しい出来事であったようです。 この「腹切り所」というところは、村営玉川住宅から県道 玉川・谷田川線に出たところの反対側の田んぼと言われてい ます。また、「介錯(かいしゃく)」に当たった者の刀などを 洗ったという「刀洗いの池」が今でもその近くに残っています。 でも、その場所はあまりに悲しいので、今日はひみつにして おきます。 |
「うわーん、ドラエもん かわいそう」 「のび太くんも、そう思う」
「巌峯寺ができた1000年前がいいな」 「うん、そうしよう」 そうして、ドラエもんとのび太くんは、さらに520年前の時代に いくため、「どこでもドアー」の扉をあけました。 |