紙芝居【巌峯寺歴史探訪VOL,2】

■この素晴らしい地域(白華山巌峯寺の里山)を子供達に伝えたい。

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 「うわーん、ドラエもん かわいそう」

「のび太くんも、そう思う」


「もっと昔の時代にいこうよ!」 楽しいことがあるかも知れない。

「巌峯寺ができた1000年前がいいな」

「うん、そうしよう」

そうして、ドラエもんとのび太くんは、さらに520年前の時代に

いくため、「どこでもドアー」の扉をあけました。

 うわー、田んぼだ!!  のどかだね、ドラエもん

「昔もお米を作っていたんだ。」

「今は田植えの季節なんだね。」

あの山はなんていうの?何で白いんだろう。

のび太君、あれは「白華山(はっかざん)」ていうんだよ。春に

なると「こぶしの華」が満開に咲いて山全体が真っ白になるんだ。

だから村のひとは皆、「白華山」って呼んだそうだよ。

めずらしくてきれいな山だったんだ。

その当時はこの村を、「おおつき村」といったんだって。

ある日、石川の殿様で「石川有光」という人がこの話を聞きつけ

て「おおつき村」に来て白華山にのぼりました。

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 平安時代の1070年、この山に登った源(みなもとの)有光(ありみつ)公。

「有光」という殿様は東北地方の戦争に勝って天皇からこの石川の

土地を与えられました。

そして名前を「みなもと」から「石川」に変えたのです。

「おお、すばらしい!」

「なんと美しきながめじゃ!!」

「この地はまさに霊峰だ!」

※「霊峰」とは神だけが住める山をいいます。

ここからは矢吹、須賀川はもとより郡山まで一望できて敵が攻

めてくるのがすぐ判る。

「阿武隈川がすぐ下を横切っているので、この地に入るには川を

渡らねばならない、この地は攻めづらいであろう。

この山は絶好の見張り台となるはずじゃ」

むかし、阿武隈川には鮭(しゃけ)が登ってきていました。

季節ともなると鮭取り人で大変、にぎわったようです。

水の量も今の2倍から3倍はあり、橋もなくて渡るのは大変

苦労したということです。

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 「こんな都合のいい山はめったにないぞ。」

川辺八幡神社も近いことだし

よし、決めたぞ。ここにお寺とお城を建てることにしよう。


川辺八幡神社は源義家公や石川頼遠公が東北征伐の時に「戦勝祈願」

をしたところでその当時でも非常に大きな神社でした。

一番、栄えていたころは「鳥居」が48もあり、最初の鳥居は

棚倉町にあったそうです。

  その当時の、東北地方は安部親子が大きな勢力を誇っていま

した。父は安部頼時(よりとき)、息子は貞遠(さだとう)

といって静かに暮らしていました。

ある日、陸奥の国、宮城県で全国ではじめての「金」が発見

されました。 そのうわさはあっというまに都にも届きました。

都の偉い人々はその「金」を神社仏閣に寄進して名声を得よう

と考えました。

しかし、「金が欲しい」とはいえません。付け入る口実を考え

ていました。 ついに、その地を収めている国史との戦いが始

まりました。

国司とは天皇から命令されて、その国を守る警察官のことで

す。しかし、安部一族はすごく強かったのです。

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 天皇はいつまでも戦(いくさ)が収まらないので「みなもとの

よりよし」というひとを京都から東北地方に「安部一族」を

退治するように派遣しました。

よりよしの長男もお供しました。「よしいえ」といいますが、

のちに「八幡太郎義家」とよばれた人です。

その「みなもとのよりよし公」に一緒にお供したのが、この山

に登った「みなもとの有光公」と「お父さんの頼遠公」でした。

お父さんの頼遠公と「源のよりよし公」は従兄弟(いとこ)

どうしでした。

この戦(いくさ)は相手も強く12年も続きました。

ある日、お父さんは一生懸命戦いましたが戦死してしまい

ました。56歳でした。法名を「巌峯寺殿仁勇建徳大居士」

といいました。

しかし、お父さんの頑張りで味方が勝ちました。

これがあの有名な「前九年の役(えき)」という戦いです。

お父さんと一緒に戦った子供の有光公はいっぱい天皇から

ご褒美をもらいました。

そして、この石川の土地ももらいました。

よし、このお金でお父さんのお寺を建てよう。

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白華山巌峯寺を作るための工事が始まりました。その為に

おおつき村にはいっぱい人が来るようになりました。

山の上に材木や石を運び上げるのは大変な作業でした。

しかし、みんな一生懸命頑張りました。

「白華山巌峯寺」がついに完成しました。

1074年、いまから941年前のできごとです。

その「お祝い」には偉い人やお坊さん達がいっぱい集まり

ました。お殿様はお父さんの「お骨」を巌峯寺に埋めて、

その霊を弔いました。それから、巌峯寺は石川一族の「菩提寺」

として栄える様になりました。

今、父、頼遠(よりとう)公の墓は五輪塔のそばにうつされて

います。当時は「禅宗」でした。

 有光(ありみつ)の殿様はお城も建てようと考えていました。

石川は盆地にあって、守りにくく、攻めに、出にくいところでした。

巌峯寺に出城(でじろ)があれば「敵の動き」がすぐわかるために、

どうしても建てかったのです。

村の人々も自分たちを守ってもらう為に毎日協力しました。

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 ついにお城が完成しました。

おおつき村にあることで「おおつき城」と名付けられました。

先ほど通ってきた看板のところに「おおつき城」がありました。

須賀川方面から敵が攻めてきたら「のろし」で合図することに

して石川の殿様に「緊急事態」を伝える様にしていました。

昔は「自動車」や「携帯電話」もなく馬に乗って連絡していた

から大変だったのです。

このお寺とお城が出来てから何年も平和な暮らしがつづきま

した。そして時代は変わり「石川有光公」「基光公」と亡くなっ

て石川家も五代目の殿様になっていました。
それから「巌峯寺」には参拝客がいっぱい訪れました。
この平和は、「お殿様のお陰だ」と村人はお寺に行って、
一生懸命に「有光公」「基光公」のお参りをしました。

しかし、夏にお参りにいくと「巌峯寺」には「お化け」がでると
いううわさがいつしか広がりました。

 夏に「巖峯寺」にお参りにいったひとは必ず見るのです。

井戸の中から鎧兜(よろいかぶと)を身につけた骸骨が出てくるのです。

「おい、おまえ見てこい」  「何いってんだ!」

「おまえが見てこいよ」

「ヒエイー、こわいよー」

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 おばけを見た村人達は恐ろしくてついに

むらの長老と巌峯寺のお坊さんに相談しました。

お化けを見たという村人に聞くと

「お化けはいつも鎧兜(よろいかぶと)をつけている」ようなのです。

むかし、鎧兜(よろいかぶと)は偉い人しか身に付けることしか

できませんでした。

そのお化けはいったい誰なんだろう?。

いつしか巖峯寺にお参りに訪れる人がみるみる減ってきました。

  村人から「話」をきいたお坊さんは石川の殿様に会いにいき

ました。このままでは「おおつき村」から村人がいなくなって

しまいます。

「あのお化けは誰なんでしょう」「しっていますか」

石川の若い殿様は考えました。そして思い出しました。

「あ!!そういえば まだ有光公、基光公の墓を作っていな

かった。」それでお坊さんは納得しました。

お坊さんは言いました。

「判りました」。巌峯寺に出るお化けは「石川有光殿様・基光

殿様などの石川家の土台を作りあげた殿様の霊なのです。

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 河内の国、いまの大阪からこの地に移ってきて、お寺やお城など

作ってきたのに

お墓を作ってもらえなかったことで相当、怒っているのでしょう。

先祖の霊が「ガイコツのお化け」となってあらわれていたので

しょう。若いお殿様が言いました。

「お墓を作ってもらえなかったことで相当、怒っているので

しょうか?」

「そうです。」

 「こまったものじゃ。」

「巌峯寺から村人がいなくなってしまう

なにか、良い案はないのだろうか」

「いまさら、普通の墓では満足しないだろう。」

「五輪塔はどうじゃろうか。」とお坊さんが言いました。

五輪塔は日本にはまだまだ作られていない珍しいものだ。

「よし石川基光公を供養する石塔婆をつくろう」

「よし、決めたぞ」石屋を呼んできてくれ。

石川の若い殿様は急いで作るように命令しました。

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 石川の若いお殿様は大金をだして石屋さんに「すぐ、作る

様に」いいました。

石屋さんは夜も寝ないで一生懸命働きました。

ついに藤原時代の末期、1181年に完成しました。

高さ180センチの大型五輪塔が作られました。

いまから834年前の出来事です。、

その後、この「五輪塔」は日本では岩手県・大分県についで、

3番目に古く、大切な宝物とされ「国の重要文化財」に指定

されました。


残念ながらいまは「風輪」と「空輪の一部」が無くなってい

ますが、そのほかは今でもしっかりと残っています。 

   この五輪塔は仏教の「空・風・火・水・土」を現したものと言

われています。

上から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「土輪」と呼ぶそう

です。


おおつき村の人々は毎日、畑仕事・田んぼ仕事の帰りにお参り

しました。 「ここで働けるのは有光殿様・基光殿様のおかげ

だ」。その五輪塔が出来てからは、「おおつき村」はどんどん

栄えていきました。

その証拠に「お寺」が次々と作られていきました。

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 この赤いところが出発地点である「岩法寺農構センター」です。
この道路が玉川・谷田川線です。

ここが巌峯寺で、ここら辺が観音山の中腹になります。
番号順に
1,大貫山上岩寺(おおぬきやま じょうがんじ)
2,白華山厳峯寺(はっかざん がんぽうじ)
3,上寺山燈明寺(うわでらやま とうみょうじ)
4,神主山山坊寺(かんぬしやま やまのぼうじ)
5,医王山道覚寺(いおうざん どうかくじ)
6,米沢山菩提寺(よねざわやま ぼだいじ)
と6つものお寺が建てられました。これを「6院」といいます。

その中でも「白華山巌峯寺」は一番古く、そして大きなお寺で

した。巌峯寺には鐘楼や食堂や仁王門などの「7堂」がありま

した。地図をみてみましょう。

住宅団地から県道田村線にでた向かい側の田んぼに「腹切り所」

があったと伝えられています。

 こんな 小さな村に6つものお寺が建てられることは考えられ

ないことです。

それだけ巌峯寺は繁栄し、また魅力があったのです。

ですから、巌峯寺にはまたまた住む人が増えました。

いっぱいお家が建てられて一つの町が出来ました。それが現在

の「中の町」地区です。

また、「細町」や「そり町」という地名もあったと先人たちは

いいます。

しかし時代はすこしづつ変わっていきました。いままでは天皇に

力があったのですが朝廷に変わって武士が力をつけてきたのです

「国盗り」の世の中に突入していったのです。

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 そんな平和な巌峯寺に攻め入ってきたのが、三春のきかん坊

田村清顕(きよあき)です。田村清顕は三春城主である「田村

隆顕(たかあき)の息子で小さいころから血っき盛んな子供

でした。

伊達家から送られた名馬にうち乗って、すでに須賀川二階堂の

領地を襲撃していました。

そのついでに小作田や前田川・竜崎など焼き払い、ついに

巌峯寺に乗り込んできました。

 田村清顕は民家だけでなく「厳峯寺の7堂」及び「6つのお寺」を

すべて焼き払ってしまいました。

本当に悪い殿様でした。

巌峯寺のひとびとは山に逃れてかくれました。なぜかというと

農民は武器を持つことが許されなかったのです。

しかたが無かったのです。

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 田村清顕はそのほかにも「おおぬきやま 上岩寺」の釣り鐘を

戦利品として持ち帰ってしまいました。

戦利品とは戦いに勝って「宝物」など持ち帰ることです。


本当に憎らしい殿様でした。しかしその時代はしょうがなかったのです。

それが「国盗りの世の中」の現実だったのです。

 巌峯寺のひとびとは三春の兵隊がさってから、山々から出て

きました。

お家が無くなっているのを見て、みんながっかりしました。

しかし、巌峯寺の人々は「困難」に負けませんでした。

暑くとも、寒い中でも また、、一生懸命に働きました。

まわりの人たちが、働き手の足りない一軒の家の仕事を

手伝いました。そのお返しに今度は逆に手伝ったりするのです。

それを「結い」といいます。

岩法寺には今もその「しきたり」が残っています。

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 巌峯寺のひとびとは悪い殿様にいたずらされても、お家をやか

れてもこの土地が大すきで、ここから出ていく人はあまりいま

せんでした。「よし、またお家をたてよう」といってみんなで

「結い」をしながらがんばりました。

それから直ぐに徳川の江戸時代となり「いくさ」がなくなりま

した。お寺はみんな無くなりましたが、巌峯寺の人々はお金を

出し合って「白華山巌峯寺」だけは建て直しました。

それが今、ここに建っているお寺なのです。

昔は「禅宗」でしたが、その後は「臨済宗建長寺派」の寺院となりました。

 現在でも巌峯寺は東北では唯一の臨済宗鎌倉建長寺の末寺です。

また、岩法寺に生きてきた人々は「お寺」や「神社」などを非常

に大切にしてきました。

毎年、旧暦の6月16日、今で言えば7月27日頃になります でしょうか? 

とにかく一年で一番暑い時期になります。

岩法寺には「お田植え祭り」が古くから行われていました。

祭りは豊作を祈願する祭りで「白鍬踊り」と「獅子舞」が奉納

されました。最初に村の八幡神社に奉納し、次に「五輪塔前」

で行われ、白鍬踊り・獅子舞の行列はそのまま白華山に登り、

巌峯寺奥の院に奉納し、帰りには新屋敷の本堂で「収めの

踊り」を奉納したということです。

旧暦の6月15日は「天王さま」、16日は「お田植え祭り」、17日

は「観音様」でこの三つの祭りを「巌峯寺夏祭り」といったそう

です。それはもう、ほかの部落がうらやむほどにぎやかだったと

言います。当時の繁栄を知っている獅子頭が巌法寺奥の院

本堂に今も残っています。

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この巌峯寺夏祭りの3日間は近郷近在から多数の参詣人が

あり、各家庭にもお客があって大変にぎやかだったいうこと

でありました。

どこの部落にも「白鍬踊り」はありましたが、巌峯寺の

「白鍬踊り」は踊り子にはとても難しく 、「雷にあって

引き返すところのくだり」は見る者をおおいに喜ばせたと

言われています。ただ、それが他の部落に比べいち早く

すたれる原因であったとも言われています。

「明治の初期に踊ったのが最後であった」そうです。


巌峯寺だけは、幕府時代は天領と称して、幕府直轄地で

あったために年貢は「米」ではなく「金納」であったと

いうことです。

地元のそろばんの師匠などは「年貢納め」の時期になると

白河藩や棚倉藩に勤めにでていたとも聞きます。

 その当時から、現代まで「巌峯寺」と「五輪塔」が岩法寺の

ひとびとをずーと見てきました。そして見守ってきたのです。

また、巌峯寺の人々も「巌峯寺」と「五輪塔」を大切にしてきました。

子供育成会のみんなも大切にして、このすばらしい岩法寺の宝物を

次の世代に引き継いでいきましょう。

ドラエもん、のび太くん、育成会のみんな、さようなら、また来てね。

バイバイ。

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それから、ドラえもんとのび太君は「どこでもドアー」の扉を

開けて現代に戻ってきました。

ドラエもんは言いました。

「巌峯寺を燃やした田村の殿様は悪いひとだね」

「ドラえもん、岩法寺は豊臣秀吉に従っていれば今頃、郡山市

か須賀川市みたいな大きな町になっていたかも知れないね。」

「のび太君、来週は球技大会だよ、もうみんな練習に集まって

くる時間だよ。早く着替えてよ」

「うん、僕たちもがんばらなくちゃね」 「そうだね」

「よし、がんばろう」

 ドラエもんの巌峯寺歴史探訪

お  ・  し  ・  ま  ・  い

お粗末さまでした。

この続きはまたいつの日か・・・

さようならー

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参考及び引用文献

・玉川村史・・・昭和55年3月31日 発行元;玉川村

・玉川村史 追録U・・・平成19年1月 発行元;玉川村

・たまかわの民話と伝説 まんが版・・・企画発行;玉川村

・巌峯寺地域に住まわれる方々(当時高齢者)からの聞き取り

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