白華山巌峯寺(はっかざんがんぽうじ)
春が訪れると「こぶしの華」が咲き乱れ、山全体が真っ白に見えたところから「白華山」と呼ばれたそうです。これを一つの目安として「田植え」の準備にいそしんだということです。日本全国にいくつのお寺があるのか?知りませんがこのお寺の名称だけには「グッ」とくるものがあります。手前味噌で恐縮ですが、本当に聞こえが良くて癒される名前だと思います。
「白華山巌峯寺」は人里の低地にあり、【白華山巌峯寺奥の院】は観音山の頂上付近にあって、若き僧達にとって修行の聖地だったそうです。 今は福島空港建設構想で「霊場」であった観音山も削られ、それに伴って【白華山巌峯寺奥の院】も標高415mの低地に移築されています。
福島空港という近代的な花形輸送施設のために犠牲となったのがこの観音山霊峰でした。
この寺院建立ははるか昔、源頼義・義家父子、頼遠・有光父子等一族が河内の国(現在の大阪)から【前九年の役】に際し派遣されたころから始まります。
奥羽の豪族を一掃した後、この国を賜った源の頼遠・有光父子は姓を石川に変えたと記されています。
この地方を500年統治した名門石川家の菩提寺として、今から約1,000年前の1,074年「平安時代」の建立となる非常に歴史の深いお寺です。幾度の火災に逢っても、その都度建て替えられてきた、仙道33観音の13番札所に指定されている隠れた名刹です。
年に一度、地域の皆さんが総出でお寺周辺の下刈り・清掃・草刈りなどを実施致します。中段にある仁王門(山門)は見事なものです。
【仁王門(山門)】は室町時代の建築と伝わる。そこを守る「阿形」と「吽形」 、今回4度目の大修理。岩法寺縁起書には運慶の作と記されていますが銘文が見つからず・・・。しかし「一流仏師が彫ったことには間違い無い」との多くの研究者の称賛の言葉をもらっています。
【木馬堂】 境内の一画に奉納された赤馬・白馬が存在します。当時の「牛馬」は大きな労働力として非常に大切にされていたことが伺えます。
【千手観音堂】と【鐘つき堂】、守本尊は聖徳太子の御作となる「千手観音像」。
国宝【石造五輪塔】。玉川村の最高級文化財、日本の仏教美術史上、また石造工芸史上全国に誇り得る重要な文化財と言えるでしょう。
五輪とは下方から「土輪」「水輪」「火輪」「風輪」「空輪」と呼ぶそうです。
「風輪」と「空輪」が欠けていることが誠に残念です。
観音山遺跡出土の鬼瓦
福島県文化財センター白河館発行「まほろん通信VOL.30」より
福島県南部の玉川村岩法寺地区観音山遺跡から出土した鬼瓦です。平成元(1989)年度に福島空港建設に伴って観音山に所在する観音堂とその付属施設の移転が計画され、試掘調査・発掘調査が実施され、平安時代から現代に亘る多種多様な遺構や遺物が発見されました。調査以前には、現地に福島県唯一臨済宗鎌倉建長寺派白華山巌峯寺の奥院である観音堂が建立されていました。
玉川村岩法寺地区には国の重要文化財である「五輪塔」をはじめとして、古代末から戦国時代にかけて活躍した石川氏関連の史跡や六堂七院の伝承が数多く残されています。このことから古来から仏教文化が花開いた地区と考えられます。
この鬼瓦は解体した観音堂の下から破片の状態で出土し、復元したものです。江戸時代後期(18世紀前後)頃には、観音堂を中心に馬堂(うまどう)・子安堂(こやすどう)・鐘楼・石垣・手水池(ちょうずいけ)が配置され、観音堂は屋根瓦が葺(ふ)かれていたと考えられます。同時に当時使用した陶磁器(会津本郷焼や相馬大堀焼など)が出土しています。鬼瓦は和式建築物の屋根の棟端(むねはし)などに設置される板状の瓦の総称です。鬼と略して呼ばれることもあり、魔よけと装飾を目的とした瓦です。江戸時代後期の観音堂屋根に大きく飾られ、観音堂を含めて麓(ふもと)の集落を守っていたことでしょう。
※白華山巌峯寺の歴史1,000年をたった1ページで語ることは不可能です。
今回は「おさわり」だけをご披露致しました。